中国五県土地・租税資料文庫

広島大学図書館所蔵の中国五県土地・租税資料文庫は、慶長から明治中期に至る間の、中国五県の土地及び租税制度に関する資料6,662冊からなる文庫です。当館では平成14年度から16年度にかけて、これらのうち広島県関係の資料約1400点の電子化を行いました。そして、平成15年7月からデジタル郷土図書館の一部として、これらの電子化画像のインターネット公開を始めました。平成21年度にも追加して資料の電子化と公開を行っています。

1.検地帳

Webページ『検地帳(中国五県土地・租税資料文庫) デジタル郷土図書館』広島大学附属図書館(閉鎖済み)より

検地帳は、検地の結果を一村ごとにまとめて作成した土地台帳のことです。
水帳(みずちょう)ともいうのは、古代律令制下の田籍を記した「御図(みず)帳」の宛字ではないかと考えられてもいます。
検地は領主が所領把握のために村を単位に行った土地調査のことです。土地一筆ごとに田・畑・屋敷などの別(地目)と等級(地位:ちぐらい=上・中・下・下々)を査定して米の収穫量(石高)をはかり、土地の所持者(作人:さくにん)と貢租の基準額を決定しました。それらを記したものが検地帳(水帳)になります。

検地帳の様式が定まってきたのは豊臣秀吉によって全国的に行われた太閤検地以後で、江戸時代に整備されました。
検地帳に登録された作人は名請(なうけ)・名負(なおい)といい、その土地の所持権を保証されると同時に納税の義務を課せられることになったのです。

また、明治維新では地租改正(ちそかいせい)が行われました。地租改正は、明治政府によって明治6年(1873)の地租改正条例で全国的に実施された土地改革です。土地の所有者を認定し、その者の名前を記した地券を発行して公式に土地所有者を決定しました。地券にはその土地の価格(地価)と納めるべき租税額(地租=地価の3%)が記されており、地券を発行された者は土地所有権を公認されると同時に納税の義務(江戸時代と異なり金銭納入)を負うことになりました。

地租改正時には政府と全国各県との間でおびただしい文書が交換されています。
このサイトでは、広島大学附属図書館で収蔵する「中国五県土地・租税資料文庫」の中から、郷土にゆかりの深い広島県関係分を公開しています[1-1]

(文:白石烈 氏)

[1-1]『検地帳(中国五県土地・租税資料文庫) デジタル郷土図書館』にて公開していた資料は,本デジタルアーカイブへ移行して公開しております。

2.中国五県土地・租税資料文庫 解題

『中国五県土地・租税資料文庫目録 第1部』広島大学附属図書館 昭和40年3月20日発行 あとがきより

本目録に収録された資料は、昭和27年11月と昭和35年6月の再度にわたり、広島国税局の厚意により、広島大学が寄贈を受けたものである。資料内容は、中国五県下にわたり、慶長2年[2-1]以降明治中期に及ぶ、土地制度・租税制度に関係するもので、藩政時代の郷帳[2-2]・村明細帳[2-3]・免帳[2-4]・小物成帳[2-5]などを初めとし、まとまっては出雲国検地帳・備後国検地帳など各々千数百点と、明治維新の地租改正関係の「本庁命令録」、関係諸県と本庁との往復文書綴、諸調査報告書類、「地券税帳」、村別切絵図等その他が含まれている。

出雲国検地帳は年代に統一はなく、村によって、慶長年間[2-6]から、元和・寛永・正保・慶安・承応・明暦・万治・寛文・延宝・天和・元禄・宝永・享保・寛保・延享・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化など各年間[2-7]にわたるもので、町方地銭帳や新田[2-8]検地帳なども含まれている。備後国検地帳は福山城主水野氏による 寛文11年度[2-9]のものと、水野氏改易後、幕府が岡山池田家に命じて行った元禄13年度[2-10]のもので、ことに 元禄13年度のものは福山領分全領域の村々のものがほとんど残されている。またその前後の新田検地帳も少なくない。

地租改正関係資料でも、島根県関係と広島県関係のものが最も豊富で、岡山・山口・鳥取各県関係のものは少ない。本庁命令録や関係諸県の布達類・例規録などとともに、本庁との往復文書綴(「稟申録」等)などは、地租改正の実施過程における、県段階の具体的な開題点などが浮彫りにされて、史料的意義は大きい。諸調査報告書類(各種土地反別・収獲・地価・諸物価など)や地券税帳なども統計的に処理すれば貴重なデーターが得られると思われる。その他部分的にではあるが村明細帳類(「輪切帳」など)や争論地取調書なども含まれている。また未刊の「山口県地押沿革史」、「出雲国租税沿革史」などの編修ものもある。

本目録が今日の行政区画を基準として分類せられたことは、当該地域に関する関係資料の所在を明らかにする意味においては頗る重宝であるが、以上述べたような比較的まとまった同一種類の資料群に即していえば、それらを地域ごとにばらばらにしてしまったきらいがないでもなく、この種の資料活用の上からいえば、難のあるところであろう。しかし、引続き目録第2部として資料内容による分類目録が準備されていると聞いているので、その刊行される日の早からんことを期待したい。

ともあれ、今日本目録がようやく公刊され、学界に提供されるに至ったことは,広島国税局より譲渡を受けた折の関係者の一人として感慨無量なるものがある。巻尾ではあるが、当時の経過の概要を記し、広島国税局関係者各位の甚大な配慮に対する謝意に代えたい。

もともと、この資料は、広島税務監督局の倉庫に眠っていたのを、戦時中、同局勤務の相原勝雄氏の識見と熱意により、非常な労苦をおかして可部町に疎開されていたため、幸いに原爆の惨禍をまぬかれたもののよしである。戦後、広島国税局の保管に帰したが、当時兵器廠の遺構が仮庁舎として使用されていたため、疎開先から持帰られたこの資料は、旧弾薬庫の中に堆積されていた。たまたま、私は広島財務局の主裁する社寺境内地処分委員会の委員となって、この事実を知り、早速懇請して出雲国検地帳など数部を借用することができた。しかし、その後数年を経過して、昭和26年9月広島国税局と大学との連絡の行違いなどもあって、この資料群は一括反古として業者に払下げられてしまったのである。このことを聞き知って、私は周章国税局にかけつけ、当時文書係長であった石井功氏を訪ね、なんとか回収できぬものかと悃願に及んだことを、今もありありと思い起すことができる。まことに、この彪大な資料群が今日残り得たのは、この日からの石井氏の献身的な御尽力のたまものといわなければならないものがある。なにぶん、この資料群の料紙が良質のみつまた・ 楮紙[2-11]であるだけに、いったん払下げを受けた業者は、言を左右にして頑として回収の申入れに応じでくれない。国税局の事務処理上の困難な立場もあったことと臆測される。しかし、石井氏の熱情と尽力によって、ようやく業者も回収に応じてくれることになり、連絡を受けた私は、当時の渡辺則文助手や文理大国史学生諸君と共に、早速業者の倉庫にかけつけた。そこには一般反古紙がうず高くほうりこまれていたが、その中からその資料を一冊、一冊掘り出した感激は今でも忘れることはできない。こうして、いったん国税局に回収されたのであるが、翌年11月、その一部を残して、他は一括正式に広島大学に譲渡されることとなった。この間にも万端石井氏の尽力にまつところが大きかったが、なお当時の国税局長松田文蔵氏、会計課長松田敦氏の高配と共に、広島大学文学部長渡辺鼎教授の支援を忘れることはできない。その後、昭和35年6月、当時広島国税局総務部長瀬戸文八郎氏の高配と、さらに石井功氏の斡旋によって、前回局に残されたもの全部が、追加譲渡されることとなった。こうして、この資料群は、今日目録にみられるような姿で,本学に収蔵されるに至ったものである。

(後藤 陽一)

[2-1]1597年
[2-2]江戸幕府が全国に命じ、幕府領・私領を問わず、一国ごとの石高(米の収穫量)を書き上げた帳面。郷村石高帳の意。17世紀前半には各将軍に提出が命じられた
[2-3]むらめいさいちょう。江戸時代、村の概要を記して領主に提出された帳簿のこと。村鑑(むらかがみ)とも。田畑の面積・石高、山野や水利の状態、家数、牛馬数、特産物等々、村内一切のことが記されている
[2-4]めんちょう。「免」とは江戸時代の年貢率のこと。「免三つ(年貢率30%)」「免四つ二分五厘(42.5%)」などと記された。中世から江戸時代初頭までは「免」は免除する意味で用いられたが、その後年貢率を意味するように変化した。
[2-5]こものなりちょう。小物成とは江戸時代、田畑から上納する年貢以外の雑税の総称。種類は非常に他種類にわたるが、だいたい山林・原野・川海の用益や産物に賦課された。
[2-6]慶長元年(1596)~十九年(1614)まで。
[2-7]元和年間から文化年間は1615年~1817年までの約二百年間
[2-8]しんでん。新田とは江戸時代に新たに開墾された田地のこと。新開とも。
[2-9]1671年
[2-10]1700年
[2-11]こうぞがみ。ちょし。和紙の一種。コウゾの樹皮の繊維を主原料としてすいた紙で品種が多い。古くから写経用紙・書類用紙・障子紙・傘紙などに広く用いられた。
用語解説([2-1]から[2-11])白石烈氏

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